- 個展記録集 -



 「我々は絶望しているだけではならない」

 私が関水英司と出会い、その力に驚愕したのは2017年のK‘s Galleryにおける個展であった。これまでと全く異なる作風であり、関水が常に挑戦を続けていることを理解したので、画集刊行を勧め、実現した。私は2020年10月、ギャルリー成瀬17で「Libido―内海信彦/河口聖/関水英司―針生一郎の方へ」を、コロナ禍でやっと開催できた。その後も関水はGalerie412、Steps Gallery等で個展を繰り返し、少し先の時代を描いてきたので、その都度、楽しみにしていた。
 関水から、今回の制作の方向性をみて欲しいと連絡があった。穏やかな表情を浮かべながらも内に激しい炎を燃やしている関水が弱音を吐く訳がないと思いつつ、アトリエに向かうと、作品に何も問題はなかった。理由は知れないが、常に周辺にアンテナを張り巡らせている関水は、「世間一般の負の空気」を感じたのではないだろうか。私も昨年の新学期頃から、この国の住民が完全に自分のことしか考えなくなったことを悟った。これまでとは違う。完全に時代は代わったのだ。
 私はチャンスを見逃さず、20年振りに宮川寅雄の研究を再開した最中であった。私と関水は和光大学出身である。私は宮川の研究の姿勢と「漱石ですら見抜けなかったファシズム」を現代に即する為、DMでそのようなことを書いた。これは関水の為でもあると共に、私と関水と宮川による世間への挑戦状である。新時代は、ファシズム以上の拘束がある。明治期以上だ。それに気づき、無益な血を流さず、正当に突破しなければならない。戦前、犯罪者でも戦後、代表者になったように。
 大型の新作は、やはりこれまでと大きく異なっていた。関水によると、一つの物語が秘められているという。それを解き明かすことが今回の目標ではない。私もまた、画面の中に7人の聖人を見出した。それは日本画と同様、右から左へと視線を動かすと自然である。60年代後期の革命の時代を象徴する、サイケデリックも感じる。聖人の間は抜けるような空間ではなく、リゾームのように複雑に根が張る。岡本太郎を感じる理由を、その後私は川崎の太郎美術館に行って気がついた。縄文である。
 ホモ・サピエンスは活動を繰り広げ、発祥の地であるアフリカを飛び越えて、遂には地球上を隈なく制覇した。その間に他の類人猿を滅ぼした可能性を、否定できない。実際にホモ・サピエンスが絶滅させた種は、数えることが出来ないであろう。ホモ・サピエンスの最初の革命は、農耕という統治であった。それをソサエティ2という。1は狩猟、3は工業、4は情報、新時代が5である。狩猟から農耕への移行とは、発展ではなく統治の変化であったと解釈する研究は、幾らでもある。
 日本では弥生時代という農耕によって、日本人は互いに大量虐殺し、その恐怖から自殺者が急増化し、モノに価値が生まれて争いが起きた。これは何を意味するのか。狩猟時代、即ち縄文期には、暴力が存在しなかったという研究がある。縄文人は自律し、自由で、争いがなかったのだという説が幾つもある。これは共産、社会、資本といった、現代から見る「主義」に当てはめることは出来ない。弥生から「統治」が為され、「悪」が誕生したことを意味する。「悪」を置くことによって、自らの正義により「統治」が可能になる。
 人類は今、現行の17000年続く「新生第四紀」である地質時代を、1950年代あたりから、「人新世」に改めようとしている(「朝日新聞」2021年6月1日24面)。つまり我々は一万七千年前の旧石器時代から抜け出して、新しい地質時代に入っていることになる。それは、縄文時代を抹殺することに等しい。1950年以降とは確かに原子力発電、人口の増加、公害、デジタル化と、大きな変化が訪れている。しかし、それでいいのか。それは、新しい「統治」ではないのか。私の意見は、過剰なのか。
 関水の作品を見ていると、ここに描かれているのが「悪」の在り様なのではないかと感じてきた。「悪」は、時代の変遷により、直ぐに変化する。JOHN LENNON & YOKO ONOは『Wedding Album』(1969)で「すべての人間が、魂の中からヒトラー的な部分」を「ぼくらはみな、そんな部分を内面に持っている」(Side 2 《Amsterdam》)ことを指摘する。自己が何時でも「悪」に転じてしまうことや、そうでなくとも他者にそう思われる可能性を知っていたのだ。私はここで「絶対悪」を考察しない。ここでいう「悪」は、相対的だ。
 「世間一般の負の空気」は、これから何を「悪」にしようとしているのだろうか。これを予知し、最小限に留め、本来の方向に私たちを導いていくのが、この作品なのではないか。無論、そのような警告だけを発しているだけではない。100以上並んだ小品は、現代の複雑な世相を表している。その中には、当然「希望」が含まれている。我々は絶望しているだけではならない。絶望しているからこそ、その中に含まれる「希望」を見出さなければならないのだろうと、私は深く祈るのである。(宮田徹也|日本近代美術思想史研究)

 「宙(そら)にともる」について
 1月4日はめずらしく雪が積もった。私はこの作品を外で制作していた。
 なぜか泣きたくなり、「今日、つかまえられなかったら、もう、この絵は終わりだ。」と覚悟を決めた。 下地で集積した絵の具の層をある程度削り出すため、表層の顔料が粉末になり、空中に飛沫となる。しかし、その日は降りしきった雪のため、顔料は粉雪にまぎれ、私の足下に落下し、美しい斑紋になった。こんな所に絵を置き忘れたかな、と自分を疑った。
 「あー そうじゃない、積もった絵の具の粉が勝手に色面をつくったんだ!」、きれい だと思った。しばらくみとれ、心が空白のまま、作業にもどった。たぶんそのまま何も考 えなかったのかもしれない、そのうち「あ、でてきた」と思った。
 つかまえられたのだ、奥底にひそみ、うごめいているやつだ、こうなったらしめたものだもう 引っ張り出すだけだ、私と平面である画面との関係にはレアリティがうまれ、その面積比は拡大していく。手を離すとこのレアリティはもう引き寄せられない。必死だった。
 私のその心の奥底にひそむ対象は、「かけがえのないたいせつなもの」なのだ、動めいて生きている。血液の循環、命の連鎖のようなドローイングの線の集積だ、まさに私は原始、原形にある「いのちの誕生」のエネルギーの表出に向かい我を忘れた、執念も必要だ、気を緩めると逃げて行ってしまうからだ。
 8 枚のパネルが一通り連結し終わったのは、それから2週間後だった。終日の作業は夜まで続き、外の寒気はさすがに厳しかった、上を見上げた時、星は輝いていた。私はその 時、私の心にもひかりがともったような気がした。
関水 英司
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